果たして英雄か?
坂本龍馬は幕末の英雄として広く知られ、彼の名を冠した空港まで存在しますが、実際の歴史とはかなり異なる部分があるようです。
実際、坂本龍馬が私たちが考えるほど偉大な人物であったかどうかは疑問です。
では、なぜ私たちは龍馬を英雄と見なしているのでしょうか?
似て非なる小説の主人公
その背景には、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の影響が大きいと考えられます。
実際、龍馬ファンに人気の高知県の坂本龍馬記念館でも、司馬遼太郎が歴史上の人物「龍馬」と小説の「竜馬」を区別していたと記されています。
しかし問題は、司馬遼太郎の作品があまりにも面白いために、小説の内容を史実だと思い込んでしまう人が多いことです。その結果、小説に合わない歴史的事実が受け入れられないという現象が生じています。
例えば「薩長同盟」。
龍馬が憎み合っていた薩摩と長州を手を組ませたという話は有名ですが、実際には彼が重要な役割を担っていたわけではありません。
小説の中では、龍馬が西郷隆盛に「なんとかしてくれ」と懇願し、西郷がそれに応じるシーンが描かれますが、そのような歴史的事実はありません。実際、西郷はその当時、流刑地から薩摩に戻ったばかりで、藩の決定権すら持っていませんでした。
薩長同盟を実現するための鍵を握っていたのは、薩摩藩の家老であった小松帯刀であり、彼が時間をかけて薩長同盟の成立に向けた策を練っていたのです。同盟を実現するためには、藩主の父である島津久光の賛同が不可欠であり、小松がその役割を果たしました。
大政奉還においても、龍馬が何か特別な役割を果たしたわけではありません。
「船中八策」とされる文書も、龍馬が独自に考案したものではなく、勝海舟や佐久間象山、横井小楠から教わった内容をまとめただけのもので、オリジナリティーはありません。
このように、風来坊だった龍馬が幕末の日本を動かし、歴史を変えたという考え方は過大評価であり、彼の影響力は限定的でした。
『竜馬がゆく』で描かれた物語は、あくまで司馬遼太郎の創作の世界に過ぎません。
100年後のホリエモン
これは、現在、我々と同時代に生きる有名人に置き換えて考えるとわかりやすいかもしれません。
例えば、100年後にホリエモンこと堀江貴文氏。
彼をモデルにした小説が22世紀に書かれ、主人公の名前が「貴文」ではなく「高文」として描かれたとします。
その小説の主人公・高文は、郵政民営化で小泉純一郎や竹中平蔵にアドバイスをしたり、リーマン・ブラザーズの破綻に関与したり、北朝鮮の拉致問題において小泉と共に金正日と会談したと書かれた場合、100年後の読者はそれを信じてしまうかもしれません。
現代に生きる私たちにとっては荒唐無稽な話に感じますが、未来の人々が「ホリエモンすごい!」と信じてしまう可能性はあるでしょうね。
リアルタイムで同時代を生きる者からしてみれば「そんなバカな?!」と思うことも、年月が経つと、同じ時代の出来事だからということで信じてしまう人が出てくるのかもしれません。
フィクションを信じてしまうこと
ではなぜ、実際の出来事より、人々はフィクションの方を信じてしまうのでしょうか?
司馬遼太郎の小説の主人公は、小説上の架空の人物であって、実際に存在した坂本龍馬とは似て非なる人物です。
それなのに、我々は、小説の中で大活躍をしている坂本竜馬の活動内容をすごいと感動し、信じてしまう傾向があります。
最近の研究では、坂本龍馬は実は大したことはやっていなかったということが明るみにでてきてはいるにも関わらず、一旦小説の中の出来事を信じてしまった人たちは、なかなか頭の中のイメージを更新しません。
この現象には、心理学的な様々な要因が考えられます。
つまり、ストーリーの力、そして感情移入と共感です。
感
小説は、登場人物の感情や行動を詳細に描写することで、読者に深い感情移入を促します。竜馬の活躍を描き出すドラマチックなストーリーは、読者を興奮させ、彼の行動に共感させます。
そして、共感することで、私たちは登場人物を自分の一部として捉え、その行動を自分事として受け止めやすくなります。
また、記憶の歪みや印象的な出来事を優先しがちなメカニズムが私たちにはあります。
どういうことかというと、人間は、全ての情報を正確に記憶するわけではなく、印象的な出来事や感情を伴う出来事を優先的に記憶する傾向があります。
つまり、小説の中のドラマチックなシーンは、私たちの記憶に強く残りやすいということです。
記憶は、単なる事実の羅列ではなく、物語として組織化される傾向があります。小説のように整合性の取れた物語に組み込まれた情報は、より記憶に残りやすく、現実の複雑な事実よりも信じられやすくなります。
また、私たちは、自分の価値観や信念と一致する情報を選び取る傾向があります。小説の中の坂本竜馬は、多くの読者が理想とする人物像である可能性があります。小説に登場する魅力的な人物は、現実には存在しない理想的な人物像が多く、読者はその理想像に自分を重ね合わせ、現実の自分とのギャップを埋めることで自己肯定感を得ようとします。
情報過多な現代社会というバックグラウンドも考えられますね。
現代社会では、膨大な情報が日々私たちに降り注ぎます。その中で、複雑な歴史的事実を全て理解し、記憶することは困難です。
その中で、小説は、複雑な歴史的事実をわかりやすく単純化して提示します。
読者は、その単純化された物語をより容易に理解し、受け入れることができるのです。
これらの心理的な要因が複合的に作用することで、私たちはフィクションを現実よりも信じてしまうのでしょう。
一度形成されたイメージを変えることは容易ではありませんが、批判的な思考を養い、多角的な情報に触れることで、より客観的な判断を下せるようになるでしょう。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』という小説は、まだにこのメカニズムを理解する上で非常に興味深い作品といえるでしょう。
小説に登場する「竜馬」は、私たちが願うような英雄像であり、その魅力的な物語は、多くの人の心に深く根付いています。
そのため、新しい研究結果が発表されても、過去のイメージを簡単に修正できない人がいるのは、ごく自然なことなのかもしれません。
この現象は、歴史だけでなく、様々な分野で起こり得ます。
例えば、都市伝説や陰謀論なども、同様の心理メカニズムによって広まります。
大切なのは、情報源を批判的に吟味し、複数の視点から物事を考えることです。 そうすることで、私たちは、より客観的で正確な理解へと近づけるのではないでしょうか。