妖怪は「理解できないもの」の入れ物
世界各地の神話や伝承には、不思議なほど似た生き物が登場する。
フェニックスと鳳凰。
ケツァルコアトルと麒麟。
龍とドラゴン、そして八岐大蛇(やまたのおろち)。
土地も文化も違うのに、なぜここまで発想が重なるのか。
そこには「説明できないものを、何とか意味づけしたい」という人間のしつこいまでの欲求があるのだろう。
洪水の原因を八岐大蛇に、豊穣の雨を龍に、暴れ川を怪物に見立てる。
目の前の現実は理解不能な脅威かもしれないが、「名前のついた何か」に置き換えれば、それは「対処可能な何か」に変わる。
心理学で言えば、認知的不協和の解消装置としての妖怪ということだ。
「なぜあの家だけ急に金持ちなのか?」というモヤモヤは、「金霊がついたから」で一瞬にして片がつく。
反対に急に落ちぶれた家は「貧乏神に取り憑かれた」という言葉で腑に落ちる。
納得の質はさておき、心の中野モヤモヤはとりあえずスッキリするのだ。
ラベル貼りという現代の呪術
京極夏彦の京極堂シリーズがユニークなのは、この構造を冷静に可視化している点だ。
京極堂は事件を「妖怪」に代入することで輪郭を整え、憑き物落としのようにモヤモヤを剥がしていく。
妖怪は、不可解な出来事を整理するための認知フレーム=OSなのだ、という宣告である。
この「ラベルを貼るOS」は、現代日本でもフル稼働している。
ただし対象は河童や付喪神(つくもがみ)ではなく、「外国人」「中国人」「中共のスパイ」「◯◯民族」といったラベルに置き換わっている。
中国人、外国人という現代の妖怪
もちろん生活上の迷惑や衝突、不正受給、犯罪などという「具体的な問題」は確かに存在する。
だがそこに「日本を乗っ取ろうとしている」「治安悪化の元凶だ」という巨大な物語を上乗せした瞬間、「個別のトラブル」は「国家存亡の危機」というスケールの大きな物語へと昇華される。
香山リカが指摘した「ネトウヨ化するおじさん」も、この構図で読むとわかりやすい。
職場や家庭でアイデンティティを失いつつある中高年男性が、「誇りある日本」対「汚す他者」という単純な物語に自分を代入することで、「冴えないおじさん」から「祖国を守る戦士」へと自己像をスライドさせることができる。
ここでも妖怪は外側ではなく、内側の空虚を埋めるために召喚されているのだ。
いいね偏差値と、推しという生贄
では、若い世代はどうか。
SNSの「いいね!」の数を自己偏差値として測り続ける生き方が、すでにどこか滑稽で危ういことだと、彼ら自身がうすうす気づき始めている気配もある。
近年は、情報教育やリテラシー教育のおかげで、「数字は簡単に操作できる虚像だ」というメタ視点も、それなりに共有されてきてはいる。
それでも承認欲求そのものは消えない。
そこで登場するのが「推し」であり、「推し活」と呼ばれる新しい儀式だ。
推しとは、ある意味で大衆が選んだ「生贄」である。
イケメン/美女であることは認める。
崇め奉ってあげる。
豪華なステージや贅沢な暮らしも許す。
ただし条件がつく。
「裏切るな」。
恋愛するな、結婚するな、結婚しているなら不倫するな。
裏切った瞬間、ネット上でのリンチが一斉に始まる。
ここには、かつて龍神の怒りを鎮めるために、村一番の美女を生贄として差し出した物語の反復が見える。
絶世の美女は、男たちの欲望をかき乱し、共同体の秩序を壊す危険物だ。
だから「神への供物」にしてしまえば、嫉妬と欲情の矛先は、神話の枠内に閉じ込められる。
推しもまた、共同体の不安と欲望を背負わされることで、「皆の心の平穏」と「コミュニティの秩序」を維持させられているのかもしれない。
クマリと「自ら志願する神さま」
ネパールの生き神・クマリは、選ばれた少女が9歳前後で「女神」として祀られ、初潮とともにその地位を失う制度だ。
本人の意思とは無関係に神格を与えられ、やがて「元・神」として日常生活に戻される。
そのギャップに苦しむ元クマリの話は、決して珍しくない。
現代のアイドルやインフルエンサーは、ある意味「自らクマリに志願する人々」だと言える。
自分から「選ばれたい」と手を挙げ、承認という麻薬を一気に浴びる。
その先にある監視や制約、炎上リスク、人生設計の難しさまでは、若い時点ではリアルに想像しきれない。
それでも志願者が途切れないのは、「何者でもない透明人間」として生きる恐怖の方が、「自由を差し出してでも誰かに推されたい」という欲望が上回るからだろう。
ここでも、社会は生贄なしでは回らない。
均質社会という、もうひとつの地獄
もし誰も推されようとせず、誰も抜きん出ようとせず、嫉妬も炎上も起こらない社会が来たら?
それは一見、平和に見える。
しかしその姿は、ジョージ・オーウェルの『1984』に描かれたような高度均質化社会、すなわち「安全だが、何も起こらないディストピア」に限りなく近い。
妖怪も、生贄も、推しも、炎上もない世界。
そこでは確かに心は乱れないかもしれない。
だが同時に、人間の欲望も、憧れも、愚かさも、そして物語も、ほとんど死んでしまう。
私たちは不完全で、偏っていて、しばしば残酷だ。
だからこそ、妖怪を生み、生贄を選び、推しを祭り上げては引きずり下ろす。
その往復運動そのものが、社会を揺らし続けるリズムになっている。
推しと現代妖怪論を突き詰めていくと、結局こういうことになるのかもしれない。
人間は、自分たちの心の闇と欲望を処理するために、「誰か」を妖怪にし、生贄にし続けなければいけない生き物なのだ。それが嫌なら『1984』的な均質世界を受け入れるしかない。
どちらをディストピアと呼ぶかは、私たち自身の覚悟の問題なのだろう。