フィフィとさとう都議の噛み合わぬ正義

小池都政を前にすれ違う味方

小池百合子都政に対して批判的な立場をとる人々は少なくない。

学歴詐称疑惑、情報公開の不透明さ、予算の歪み、そして政治ショーのような演出過多。

ここ数年、こうした点に厳しい目を向けてきたのが、タレント兼論客として知られるフィフィと、千代田区選出の都議・さとうさおりである。

両者とも「小池批判」という一点では一致している。しかし、共闘や協働には至らなかった。

むしろ2人のコラボ動画では噛み合わなさが際立ち、観る側をもどかしくさせた。

この現象は「味方同士だから上手くいくはず」という素朴な期待がいかに脆いものかを示している。現代政治は、思想よりも“戦い方”の差で割れるのだ。

人格批判と政策批判のズレ

この二人の“正義”は異なる。

フィフィの場合は小池都知事を徹底的に人格レベルで批判する。
「悪いやつ」「信用できない」「本質的に腐っている」。
つまり、問題は人であり、人格に宿るという立場だ。

一方、さとうさおりは「罪は憎んで人は憎まず」である。
公認会計士・税理士として長年税務の実務に携わり、現在も自ら会計事務所を経営する経歴も手伝って、批判の軸は制度や数値、法的根拠に落ちる。

問題は人ではなく“手続きと予算”にある。小池の何が悪いかと問われたとき、フィフィは「人間性の腐敗」を答え、さとうは「予算の使い方と情報隠蔽」を答える。

このズレは些細な違いに見えるが、実は“敵の定義”の違いである。敵の定義が違う以上、共闘は成立しない。

炎上と議会という最も遠い戦場

さらに厄介なのは、二人の使うツールと戦場の違いだ。

フィフィはエックスやYouTubeという“炎上装置”を最大限に活用するタイプである。
怒りは燃料であり、拡散は兵站だ。支持者はコメント欄で援護射撃をし、アルゴリズムが炎の高さを測る。

一方でさとうは議会や文書開示請求、予算委員会といった“制度の内部”で戦う。もちろんエックスやYouTubeも活用しているが、現状報告、レポート、そしてそれに対する感想(もちろん感情的に反感をあらわにすることもあるが)が多い。
根拠や数字が武器で、証拠は弾薬。

炎上と議会は、政治における最も遠い二つの戦場である。
片方はスピードと温度、片方は粘りと正確性。

どちらが正しいかではなく、武器が違う。武器が違えば戦い方も異なり、戦い方が違えば連携は困難になる。

思想の一致よりも作戦の一致が重要なのは、戦争だけではなく政治にも当てはまる。

怒りの温度と“共感のハードル”

ここで浮かび上がるのが“怒りの温度”の問題だ。

フィフィは攻撃対象に対して高い温度を要求する。自分が憎むなら、相手も同じ温度で憎むべきだという感覚がある。

「人格まで嫌え」「人間として下げろ」というハードルだ。

しかしさとうは、あくまで「罪を憎み、人は憎まず」というスタンスだ。

この温度差が、フィフィには“生温い”と映り、さとうには“過剰”と映る。

温度の違いは思想より致命的だ。なぜなら、共闘とは“敵の倒し方の同意”であり、“どこまで憎むかの合意”だからだ。

思想は一致しても、温度が一致しなければ共闘は成立しない。

敵より味方が難しい政治の現実

また、フィフィは相手を“プロデュース”したくなるタイプで、河合悠祐と同じく“温度を指導する母親役”を担ってしまう性質があるように思われる。

一方のさとうは自分の方法論を確立した“職人”であり、他者の温度に合わせる必要を感じない。

この不一致は喧嘩にまでは発展しなかったが、それ自体が“共闘の不成立”という結末を示している。

敵と戦うより味方とどう距離を取るかの方が難しい。

現代政治とは、内部の温度の調整作業である。SNS時代にはなおさらだ。風呂釜の温度が合わなければ、誰も湯船に入らない。

政治は思想ではなくインターフェース

フィフィとさとうの噛み合わなさは、政治が思想や政策で割れるのではなく、インターフェースで割れるという現代的事情を示している。

インフルエンサーは拡散の政治を担い、議員は制度の政治を担う。「小池批判」は一致しても、叩く対象が違えば同盟は生まれない。“罪は憎んで人は憎まず”と“人格まで下げる”の差は、政治倫理ではなく何を“悪”と見るかの差である。

思想は一致しても戦術が一致しなければ共闘は不可能。運動とは温度と期待の管理であり、最も難しいのは敵ではなく実は味方なのかもしれない。

思えば、この構図は昭和の学生運動にもあった。六〇年代末から七〇年代にかけて、同じ大学のキャンパスや同じビルの屋上で、同じ“反権力”を掲げながら、内部はセクトに分裂し、時に殴り合い、ついには内ゲバにまで至った。敵は国家であり、大学であり、資本主義であったはずなのに、実際に血を流したのは“仲間”だった。分裂の理由は決して大義の不一致ではない。“より正しい反権力とは何か”という宗教論争、“どこまで暴力を許容するか”という戦術論、“何を体制と見なすか”という悪の定義。その些細な違いが致命的だった。

そして運動は崩壊した。崩れた原因は思想よりも、“温度”と“手段”の違いだった。同じ敵を憎んでいても、怒りの沸点と行動の閾値が違えば、人は共闘できない。むしろ敵と戦うよりも、味方を説得するほうが難しい。六〇年代の学生たちは、国家よりも隣のセクトを憎むことで、自滅した。政治とは常に、仲間割れのリスクを孕んでいる。

現代のネット政治は内ゲバを繰り返しているように見える。だがそれは必然なのだ。“戦う対象が同じだけ”では共闘は生まれない。“どこまで憎むか”“どこまで殴るか”“何を悪と見るか”“どこで止めるか”。
その共通認識が揃わなければ、政治運動はたとえ敵が共通でも連帯に至らない。

味方の温度を揃えられない運動は、いずれ自壊する。
戦術の不一致は、思想の不一致よりも深刻なのだ。