味方同士のはずが、なぜ決裂するのか
一時期、YouTubeや街宣の現場で並び立つフィフィと河合悠祐(ジョーカー市議)の姿は、保守系ネット界隈では馴染みの光景だった。
クルド人問題や移民政策、小池都政批判など、問題とするテーマも近く、思想のベクトルはおおむね同じ方向を向いていた。
二人とも“保守論客”として市民運動を牽引し、ときに炎上を恐れない物言いで賛否を集めていた。
しかし2026年に入る頃、河合が突如、動画内でフィフィとの絶縁を宣言し、この関係は唐突に終わりを告げた。共通の敵を前に“仲間”として共闘していた二人が、なぜこんな形で袂を分かったのか。
この決裂は、単なる個人的感情のもつれを超えて、ネット政治の深い文脈を照らす。
教育ママと反抗期の息子という関係性
この決裂劇に関して印象的な比喩がある。
「指名ホストに説教する太い客」というYouTube上でのコメントだ。
キャバクラではなくホストクラブという点が重要だ。
ホストは「客を喜ばせる側」だが、そのホストに高額なシャンパンなどを貢ぐ太い客はホストを育てようとする“プロデューサー”に化けることもある。
フィフィは、河合を“ジョーカー市議”として評価しつつ、「NHK党とは付き合うな」や「その行動は損だ」と助言した。自分の知る世間、メディア、保守層の空気を踏まえ、「あなたはもっと良い形で立ち回れる」という促しのつもりだったのだろう。
しかし河合にとってそれは、教育ママが息子の友人関係に口を出すように聞こえたのだろう。さらに面白いことに、フィフィの口調は「あなたのためを思って言っているのよ」という“母の正論”に極めて近い。息子の反抗期は、他ならぬ正論によって引き起こされる。
是々非々とプレイヤーの自負
河合が強調したのは「是々非々」という言葉だった。
相手がNHK党であれ、他の政党であれ、良い行動なら良いと言い、悪いなら悪いと言う。党派ではなく中身で決める――本人はそれを自立の証と考える。
しかしフィフィにとっては政治活動はもっと“市場”での勝負である。保守層の支持を広げるならNHK党に近づくリスクは高い、という“マーケティング”の視点が入る。
フィフィは河合をプロデュースしようとした。
一方で河合は、自分はプロデュースされる側ではなく、現場で体を張るプレイヤーだという自負がある。この二人は、同じ運動の中にいながら、立場の認識がハッキリとずれていた。思想の違いより、自己イメージの違いの方が致命的であることは珍しくない。
支援と干渉の線引きはどこにあるか
政治や社会運動では、支援が支配に変わる瞬間がある。
「応援している側」は、いつしか「所有している側」になりたがる。
フィフィの“アドバイス”が、河合には“干渉”に映ったのはその境界の問題だ。
支援者は「私がここまでしている」という負債を見せ、プレイヤーは「見返りを求めない応援だけ受け取りたい」と願う。
ネット政治で起きやすいのは、支援者が“太い客”化し、プレイヤーを管理し始めるパターンだ。そこで初めて、味方同士の関係は壊れる。
敵対勢力に負ける前に、内部の干渉で疲弊、最悪の場合は崩壊するのが市民運動の常である。
細川バレンタインとの相性の良さ
では、なぜフィフィは細川バレンタインとは絶妙に噛み合うのか。
理由は単純で、二人とも“完成されたインフルエンサー”だからである。
細川は誰かに育てられたり、指南されたりする必要がない。スタイルも哲学も確立され、自分の言葉で市場と勝負している。
フィフィにとって、そうした“自分は自分で立つ”人物は扱いやすい。
お互いの領域を侵さず、相手の表現方法を管理したり矯正したりしなくて済むからだ。
河合との関係は「育てる/育てられる」軸で崩れたが、細川とは最初から対等な“共演者”の関係として立ち上がった。対等は衝突も生むが、干渉が少ないぶん長持ちする。政治運動や社会運動に限らず、もっとも健全な関係とは、しばしば“協力するが互いを所有しない”という距離感なのだ。
運動を壊すのは常に身内である
フィフィと河合の絶縁劇は、敵の攻撃ではなく、味方同士の温度差によって起きたという点で象徴的だ。多くの社会運動は、外部の圧力や論争ではなく、むしろ内部の“感情の差”と“期待のずれ”によって崩れる。思想や政策の一致は意外なほど脆弱だ。同じ方向を向いているように見えても、「何をどこまで嫌うか」「どの程度リスクを取るか」「誰と組めるか」という温度は異なる。運動とは、理念だけでなく温度の管理が必要な活動なのだ。
さらに面倒なことに、外部から内部崩壊を誘発する“工作”もネット時代には容易になっている。「味方同士を喧嘩させる」という手法は、あらゆる運動で古典的かつ有効だ。思想の近さは、裏を返せば分裂の材料にもなる。敵の批判には耐えられても、仲間の失望や干渉には耐えられない。運動はしばしば、他者との戦いではなく“期待の矯正”によって滅びる。だからこそ、内部の温度を誤って把握することは致命的である。
ではどうすればよいのか。重要なのは、“どこまでを容認できるか”の線引きを最初から明確にすることだ。「思想の一致」は最初に確認しやすいが、「温度の一致」は確認しにくい。
どこまで共闘できて、どこからは別々にやるのか。所有せず、支配せず、失望しすぎず、頼りすぎない。運動に必要なのは忠誠よりも距離感であり、同調よりも棲み分けである。距離を誤れば、味方は敵より危険な存在になる。
フィフィは正義と情で叱り、河合は自由と自負で離脱した。
どちらも間違っていない。むしろ問題なのは、“間違いのない二人”が同じ空間にいたということである。
運動の持続は、似ている者同士の同室ではなく、似ていながら別の部屋を持つことから始まる。その単純な事実を理解するだけで、内部崩壊のリスクは大きく減る。
思想が近いことは祝福ではなく、むしろ慎重に扱うべきことである。運動を滅ぼすのは敵ではない。常に身内なのだ。