「フリーの横田」という存在
「フリーの横田」と聞けば、政治家会見で執拗に問いを畳みかける映像を思い浮かべる人が多いだろう。
横田一(よこた・はじめ)は長年、週刊金曜日やAERA、日刊ゲンダイ、週刊朝日、ハーバー・ビジネス・オンラインといった媒体に寄稿し、特定の社に属さないフリーランスとして政治とカネ、地方選挙、大規模開発、東京都政などを粘り強く取材してきた記者だ。
著書には『トヨタの正体』や『潜入ルポ 選挙に行こう!』『仮面の騎士:安倍晋三と河野太郎の正体』『検証・小池都政』が並び、政治家の表層の言葉ではなく統治の実務と利害の継ぎ目を凝視する姿勢が読み取れる。
会見で放つ質問は、一見、単なる場当たりの挑発にも感じられるが、長い現場取材の蓄積ならではの計算も感じられる。
会見という演劇とノイズ
記者会見は、政治家が政策と人格を演出し、メディアがそれを編集し、視聴者が意味を拾い集める舞台である。
横田はその舞台のテンポや空気に同調しない。
息を合わせず、むしろ「ノイズ」として割り込む。その不協和は、政治の演劇性を破る契機であると同時に、観客=視聴者の情動を刺激する。
だからこそ「政治家バスター」とも呼ばれる過激な像が生まれ、会見ルールをめぐる対立や出入り禁止騒動に発展する。
もちろん横田一の肩を持つわけでは決してないのだが、ここで注目すべきは、横田が生んだ「ノイズ」より、視聴者がどのように彼を解釈し、どの部分で理解を止めてしまうかということである。
しばしば切り抜きの動画は、会話のコンテクストを奪い、彼の問いを「老害の絡み」へと変質させてしまうこともある。
これにより、質問の中身、例えば税金の使途、再開発、献金、政策の空白などが見えにくくなり、人格の印象操作だけが残る。
メラビアンの法則が残した亡霊
ここで古びた心理学用語が蘇る。
メラビアンの法則。
言語情報7%、聴覚情報38%、視覚情報55%で印象が決まるというものだ。
実際には限定的条件下の研究であり、一般化は誤用であるにもかかわらず、現代社会ではむしろ常識として機能してしまっているようだ。
会見の映像は、言語より表情、声量より身振り、理屈より空気で印象が決定されやすい。
「何を言っているか」より「どう言っているか」という優先順位。
横田の質問で、視聴者が受け止めているのは、言葉の内容そのものよりも「うだうだした喋り方」「酔っ払いの老人が居酒屋で絡んでいるような姿」という非言語の表情である。
問いは、問いそのものとしてではなく、声の表情、話し方のフォーカスされ、視聴者には記憶される。メラビアンの亡霊はまだ消えていない。
ルッキズムと政治の審査基準
近年、政治家の評価軸にもルッキズムが浸透している。
外見、声質、清潔感、若々しさ、メディア映え。
政策論争と見せかけながら、結局は「映り方」、それに伴う「印象」の勝負に回収される場面は少なくない。
質疑応答も例外ではなく、「問いの内容」より「問う人の印象」が評価の母体となる。
横田のような「ノイズ」を排除したがるのは、政治家側だけではなく視聴者側でもある。
少なくとも横田の喋り(喋り方)は、エンタメ的消費に向かない。
整った言葉、整った映像、整った結論。政治がNetflix化すると、ルッキズムと態度の評価は合理化されていく。
問いはシナリオの障害物にされ、抵抗の形が貶められていく。
デジタル・クレンリネスと令和的ロジック
SNS空間では「わかりやすさ」と同じくらい「清潔さ」が重視される。
誤謬や矛盾、疲労や怒り、ため息のような曖昧さは編集で削られ、整えられた意見と整えられた態度だけが流通する。
近年の政治議論が“昭和的情緒”の乱反射ではなく“令和的ロジック”の整頓に向かうのは、時代の進歩ともいえるが、その裏で「面倒な部分」が抜け落ちていく。
問いはしばしば面倒だ。
意見の差異を棚上げさせず、立場の曖昧さを暴き、議題を引き延ばし、結論を遅らせる。こうした遅延行為は、快適さを志向するデジタル空間と相性が悪い。
だから横田のような存在は、政治家だけでなく視聴者からも邪魔者扱いされる。あるいはネット上での「おもちゃ」としていじられるキャラに変質してしまう。
ノイズの除去は民主主義の近代化のように見えるが、実際には公共圏を「無菌化」してしまう危険がある。
問いは「濁り」を引き受ける技術である
ここで改めて、問いという行為そのものに注目したい。
問いとは本質的に「濁り」を持つ。決着を遅らせ、感情の差異を露呈させ、立場を揺らし、保留と迷いを生み出す。答えに比べて圧倒的に不人気で、映像映えもしない。
「老害」という単語がネットで乱暴に投げられるとき、その多くは問いの遅さや煩わしさに対する嫌悪である。
だが、民主主義は元来スピードではなく遅さの制度だ。
多数決は手っ取り早いが、熟議は面倒だ。
熟議には問いが要る。問いは濁りを引き受ける技術であり、その面倒さを許容する精神を必要とする。
現代の公共圏は、清潔で短く効率的な答えを優先しやすい。
しかし政治の核心は、多くの場合「まだ答えが出ていないこと」にある。
税金の配分、都市開発、外交、安全保障、福祉。どれも問いの濁りを無視した瞬間に、見栄えの良い政策に堕ちる。横田が会見で空気を乱すのは、濁りを消さずに残すためだ。だから不快で、だから必要なのだ。
結論は単純である。
――社会は快適さを求めるほど、問いを削ぎ落としてしまう。
しかし、問いを失くした民主主義は、清潔で便利だが、驚くほど脆い。
濁りを含んだ問いを他人に許すこと。
そして自分にも許すこと。
その鈍くて回りくどい営みこそが、横田のような“ノイズ”をまだ公共圏に居場所として残している。
昭和的情緒はしばしば曖昧さや保留を抱え込み、令和的クレンリネスは明快さと効率を求める。
どちらが正しいというより、その両方の張力が公共圏を呼吸させてきた。
無菌化された政治は見やすいが、息はしづらい。
だが、息のしづらさを感じるうちは、民主主義はまだ壊れてはいない。

