都市への脱出、地方の重力

地方価値と“重力”の正体

地方出身の知人に、芸大卒と東大卒がいる。
二人ともそれぞれ現在社会的にも独自のポジションを築き、十数年にわたって活躍中だ。

この2人は、別々の地域で育ったにもかかわらず、東京へ出る理由が妙に似ていた。どちらも「地元の価値観」に息苦しさを感じていたのだ。

地方では「男らしさ」がしばしば食と量と豪胆さで測られる。
ラーメンの替え玉や、焼肉のライス大盛りが拍手喝采となる文化。
体育会系の明るさやマッチョな強引さが尊ばれ、繊細な趣味や文化的な関心は「都会っぽい」「気取っている」と茶化される。

こうした基準が悪いわけではない。
ただ、価値観が少ない地域ほど、基準は太り、価値判断は単純になる。

単純な価値基準は重力を生む。
地元に留まる人にとっては安心の重力。
だが抜け出したい人にとっては束縛の重力である。

成績上位だったり、文化感度が高かったり、好奇心が強かったりすると、この重力が急に濃度を増す。
教師や親や近所の大人たちが“善意”でアドバイスを始める。
結果として、自分の行きたい大学も、見たい景色も、知らぬうちに「地元に最適化」されていく。
地元の価値は安定だが、視界は狭くなる。

二人はその狭さを早い段階で察知していたのだろう。

権威は重力を破る力になる

都会に出たいだけなら、地元を離れ一人暮らしをするための大学はどこでもよさそうだ。
だが地方からの脱出においては、大学は単なる教育機関ではなく「切符」の役割を持つ。

特に東京の大学に行きたい場合、文化系の学生の多くは早稲田に憧れるようだ。
学生数が多く、玉石混交、自由なキャンパスで真面目な学生から変人まで、それぞれが好きなことを追求し、学生生活を謳歌しているように映るからだろう。

しかし早稲田は私大だ。学費がかかる。学費に加えて東京で暮らすための仕送りは厳しいと親から言われる。いや、言われなくとも察しの良い高校生は最初からその選択肢を放棄するかもしれない。
私立大学の学費プラス東京での一人暮らしのための仕送り。
経済的な負担は並々ならぬものがあるのだ。
「だったら地元の国立でいい」と親は言う。

教師は教師で「地元の国立大学でいいじゃないか、現役で行ける、君なら余裕だ」と背中を押す。
押してはくるが、行き先は地元だ。地方の住宅事情や賃金、仕送り事情を踏まえれば、親の言い分も理に適っている。

しかし子は東京の空気を吸いたい。
住み、歩き、揉まれたい。

その双方の合理が衝突する地点に、受験がある。

そこで登場するのが“権威”である。
権威は重力を破る。
旧帝大はその文脈で“合理”だった。

地元に九大や東北大や名大がある地域では、旧帝大が“地元の合理”になる。
東北に住む高校生は、東京に出たいといえば、東北大学でいいじゃないと言われる。九州に住む高校生が東京に脱出したいと思っても、旧帝大の九州大学は、東京の数ある大学よりも偏差値が高く権威がある。だから、東京の大学で勉強したいと言ったとしても、「九大(九州大学)の方がレベル高いじゃないか、なぜ九大にしないのだ?」と詰められる。

だから、さらにその上が必要になる。
残るは東大か京大。
そこに合格すれば、親も教師も渋々納得するだろう。

しかし最難関と言っても過言ではないレベル。
並大抵な勉強量では太刀打ちできない。
だから死に物狂いで努力する。
しかも、学力を上げるための努力だけではなく、親や進路指導の教師を納得させるためのエネルギーも必要だ。

そう、自分を縛り付ける地元の重力から逃れるにはパワーがいる。
願望や焦燥や文化への憧れといった燃料が、勉強と周囲の呪縛の鎖を断ち切るためのパワーに昇華されるのだ。

燃料を自ら生産した者は飛ぶ

ドラマ『ドラゴン桜』が放映された年、東大進学者の分布が少し変わった。

灘や開成や桜蔭やラサールといった“東大合格定番校”の合格者数が減り、地方のトップ校の合格者が増えたためだ。

誤解してはいけないのは、「偏差値中位の高校の生徒が、ドラマの影響で奮起して東大に合格したから」ではない。もちろん、そのようなタイプの合格者も中にいるだろう。しかし、それ以上に多いのは、地方のトップクラスの県立高校生の合格者の多さだ。

ドラマ放送前よりも前から、地方には東大に届く学力を持っていた優等生は一定数いた。
しかし、地元の重力(親や講師)によって地元の大学で妥協せざるを得なかった生徒も多かった。しかし、ドラマの放送が契機となり、地元の国立大学への進学を諦める代わりに“東大に本気で行きたい”と多くの高校生が言い始めた。つまり地方からの東大志望者が増えた。結果、受験した何人かは合格する。
つまり、合格した彼らには東大に合格するためのエネルギーは最初からあったが、それを封じられていただけの話だ。

親は生活圏を離れられることを恐れる。
教師は進学実績を気にする。
地域は優秀な子を手放したくない。
地元は善意で縛る。
「悪いことは言わない」「お前のためを思って」と無意識に縛る。

だがドラマという外部刺激が燃料に点火した。
「やればできる」ではなく「やりたいと思ってしまった」のである。

この欲望は重力を破る。
燃料を自ら生産し、点火し、燃やした者は飛ぶ。
飛べるというより、飛ばざるを得なくなるのだ。

都市はアップデートの装置になる

重力を破り東京に出ると、最初に変わるのは視界だ。

意識、友人、知人、文化、働き方、趣味、恋愛、金銭感覚。
あらゆるレイヤーがずれる。

都市は“試練”が多いが“試し場”も多い。

能力を磨く環境もあれば、失敗が許される余白もある。
地元では“変人”だった特質が、都会では“資質”になることもある。

文化的趣味や制作や評論や技術や金融やアートやITもそうだ。話せる相手が急に増える。競争もあるが、対話もある。理解者もいれば、模倣者もいる。同志も生まれる。

もちろん都市が自動的に人をアップデートするわけではない。しかし、アップデートされる可能性の密度は地方より高い。

地元の基準が一枚板なら、都市はモザイクだ。モザイクのなかで自分のマスが光ることがある。
それが帰結として階層の変化に見えることもある。だが本質は階層ではなく、世界の差分に触れることだ。
世界との摩擦は、痛いが面白い。

帰還は比較を生む

そのような都市で暮らした者の地元への帰還は象徴的だ。

同窓会や法事のたった一日でさえ、差分を露呈する。
都会に出た者は、成長したかもしれないし、あるいは失敗しているかもしれない。いずれも物語がある。
もちろん地元に残った者にも物語がある。
家業を継いだ者、就職した者、結婚した者、地元ブランドの中で幸福を得た者。どれも尊い。

だが人は無意識に比較をする。
地元の基準で測れる幸福は地元で完結する。
都会の基準で測れる幸福は更新し続ける。
どちらが上とも下とも言えない。

ただ、地元の重力を凄まじいエネルギーで振り切って飛び立った者には、夢や目標に向かって邁進し、実力で勝ち取ったという実績を持っている。そして、その先では地元では決して味わえない景色を見、新たな出会いと価値観で自らを拡張してきたという自負がある。その差分が人生を二度と同じ風景にさせない。

地元は人を守るが、守る力は時に縛る力に変わる。だからこそ脱出にはエネルギーが要る。燃料を作るところから始めた者は強い。飛んだ経験のある者は、他人の飛距離を笑わない。そして、脱出したいと願のう若者がいたなら、こう言いたい。

重力の正体を知ること。それが最初の燃料になる、と。