女性首相をめぐる違和感〜「許容された優秀さ」の罠

高市総理誕生を「喜べない女性たち」

日本初の女性総理として、高市早苗氏が就任した。
このニュースを聞いて、多くの人が驚きつつも「ようやくか」と納得したのではないだろうか。

「初の女性総理」というニュース的なトピックスの立ち方もあるが、多くの国民は、今回の就任を「性別」ではなく「能力」的に妥当な結果だと思っているのではなかろうか。
男性の多くはもちろん、女性の多くもそう考えていると思う。

つまり、“女性だから”ではなく、“実力があるから”選ばれた、それだけの話だという感覚である。

その前の石破茂にしろ岸田文雄にしろ、あまりに酷過ぎたし、対立候補だった小泉進次郎も不安要素だらけだったことも大きい。
だからこそ、「ようやくまともな人がトップに立った」という安堵の方が大きいのではないかと思う。
それがたまたま女性だった、というだけのことなのだ。

ところが、皮肉なことに、女性の社会進出を訴えてきたフェミニスト系の女性論者たちの多くは、この就任をあまり快く思っていないようだ。

上野千鶴子や田嶋陽子といった論客は、「女性だから」と歓迎せず、むしろ批判的な姿勢を示している。
表向きの理由は「思想が保守的だから」「極右的だから」とコメントをしているが、それだけでは説明しきれない感情的な違和感が漂っているように感じる。

女性が実力でトップに立ち、社会の中心に立ったという事実を、なぜか素直に喜べない。
それも、「女性の社会進出」を唱えてきた人たちほど複雑な表情を見せる。
このねじれた反応には、思想よりも感情の、あるいは立場の変化への戸惑いのようなものが見え隠れしている。

「女は女が嫌い」という構造

心理学者ジュディス・ハイトの著書『女はなぜ女が嫌いなのか』は、女性同士の間に生じる微妙な敵意や不信を描いた一冊である。

彼女は、女性の社会的なつながりが「協調」と「比較」という二つの原理で成り立っていると指摘する。

つまり、女性は互いに共感を求めながらも、同時に絶えず比較し、序列を探っている。そして、この二つの力が拮抗するとき、友情や連帯は容易に嫉妬や敵意へと転化してしまう。ハイトはこれを「共感と競争の二重構造」と呼び、女性同士の関係を特徴づける心理的トラップとして分析している。

彼女によれば、女性社会には「横の同調圧力」が強く働き、グループの均衡を乱す者に対して粛清のような心理が生じやすい。

女性の集団は、明確な上下関係で秩序を保つ男性集団とは異なり、“平等”という名の非公式な序列によって保たれている。そのため、誰か一人が頭角を現した瞬間、その存在は集団全体の均衡を脅かす「異物」として浮き上がる。
つまり、「出る杭は打たれる」のではなく、「出た女は嫌われる」のである。

その排除は直接的な攻撃ではなく、噂、陰口、距離の取り方といったソフトな制裁という形で現れる。ハイトはこれを「女性の社会的制裁システム」と呼び、心理的共同体の安定を守る無意識の機構として説明している。

この構造を政治の世界に当てはめると、高市氏のように男性社会で成功を収めた女性は、男性よりもむしろ女性たちから距離を置かれる。

彼女は既存のヒエラルキーを突破した“逸脱者”であり、その成功は他の女性たちにとって「自分はまだここにいる」という現実を突きつける鏡となる。

ハイトは、女性が他の女性の成功に対して抱く感情の根底には、単純な嫉妬だけでなく、
「自分が持つべきだった可能性を他者に見せつけられる痛み」があると述べている。

そのため、成功した女性を見ると、人は無意識のうちに「その人を否定することで自分を守る」という心理に陥る。

こうして、能力や努力で地位を築いた女性は、同じ女性から「共感できない人」「あの人は特別だから」と距離を取られやすい。

高市氏に向けられる冷ややかな視線の中にも、「彼女の生き方が私たちの現実を映してしまう」という感情的防衛反応が潜んでいる。つまり、彼女は政治的思想の問題で批判されているのではなく、“共感の秩序”を乱す存在として、感情的に排除されているのである。

ハイトは、女性の社会において“共感の共有”が信頼の通貨であることを強調する。
この「共感の秩序」の中では、共感できること=正義であり、共感できないこと=裏切りとなる。
したがって、毅然とした態度で政治を語り、自分の意見を譲らずに戦う女性は、その瞬間に「輪の外」に置かれてしまう。

高市氏はまさにその典型である。

彼女が「女性初の総理」として注目されながらも、多くの女性にとって“自分たちの延長線上にいない女性”として映るのは、この心理的メカニズムが働いているからにほかならない。

結局のところ、ハイトが指摘するのは、女性同士の関係が「協調」と「競争」という二つの欲望のはざまで常に揺れ動いているという事実である。

社会の構造が変わっても、感情の構造は簡単には変わらない。
女性が女性を批判するのは、思想や立場の違いというよりも、その人の存在が“共感の秩序”を壊してしまうからなのだ。

そしてその秩序を守るために、女性たちは無意識のうちに「出た女」を排除し、静かな連帯の中で安心を保とうとする。
高市氏が「女の顔をした男社会の象徴」と見なされるのは、まさにこの感情の構造に照らしたとき、彼女が“秩序を揺さぶる存在”として登場したからにほかならない。

ややこしくも難しい——女性が認められる領域とは

結局のところ、女性が無条件に認められる領域は限られている。

内面的で、感性的で、他者を脅かさない範囲での活躍。

そこでは才能が称賛されても、権力や影響力の獲得はタブー視される。
女性が真に自由になるには、他の女性からの“感情的な検閲”をも乗り越えねばならないのだ。

高市総理誕生をめぐる冷淡な反応は、単なる思想の違いではなく、女性社会の深層にあるこの「感情の秩序」を写し出している。

女性が女性を縛る見えない網、それが“許容された優秀さ”という名の檻なのかもしれない。

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