もやもやが残る映画
映画『先生の白い嘘』は、観る側に親切な作品ではない。
むしろ不快な作品ですらある。
人によってはもやもや感が解消されないまま付きまとうのではないか。
原作コミックは読んでいないので、あくまで映画単体としての感想になってしまうが、この「もやもや」の理由の一つは、説明することよりも、「説明されないまま放置される感情」を画面に残すことを選んでいるところにあると思う。
舞台は高校。主人公は女性教師・原美鈴。彼女は生徒たちの前では落ち着いた態度を保ち、同僚からも大きな問題を起こさない人物として認識されている。だが私生活では、親友の婚約者である早藤から6年にもわたって不適切な関係を強要され続けている。
高校という舞台は、美鈴の肩書きとしては重要だし、教え子との恋が芽生える場所ではあるかもしれないが決して学園モノというわけではなく、彼女が教師であることは、責任感や規範意識、そして「きちんとあらねばならない」という自己像を際立たせるための装置として機能している。
映画が執拗に描くのは、場所そのものよりも、どの場所にいても彼女が同じ「白い状態」を保ち続けてしまう、いや保ち続けようとする、その生き方なのだ。
「白い嘘」が意味するもの
タイトルにある「白い嘘」は、一般的に想像される「相手を傷つけないための配慮」とは明確に異なる。
この映画における白い嘘とは、自分を守るためにつく「合理的な嘘」という解釈も可能だ。心理学でいうところの「認知的不協和の解消」の手段としての嘘だ。
しかしそれは事実の歪曲的な解釈であると同時に、崩壊を先延ばしにするための装置にもなる。
だから彼女は、白い状態を保ち続けようとする。感情を極力削ぎ、怒りを極力凍結させようとする。
しかし、だから心療内科に通い続けることにもなっているのだ。
「らしさ」と規範の圧力
この作品は、加害を単なる個人の異常性として処理しない点にある。
たしかに、風間俊介演ずる早藤という男はクズで最低だ。
「最低クズ野郎」、ムカムカする。だから不快な映画だった。以上!
これがこの映画の感想だという人も少なくないはずだ。
しかし、問題はもっと広く、もっと曖昧な場所に広がっているような気もする。
それは「白い嘘」というものは、社会的に求められる「らしさ」に適応した結果、生まれるものだということ。そして社会的に求められる暗黙の規範のようなものを物差しに生きてきた「真面目」「従順な」人間ほど、むしろ大人になって信じてきた物差しと目の前の現実との乖離に行動様式や心を拗らせてしまうのではないかということだ。
教師は常に落ち着いていなければならず、感情を表に出さず、私的な問題を職場に持ち込んではならない存在とされる。その期待は明文化されることは少ないが、「教師とはそういうものだ」という暗黙の了解として共有されている。そしてこの模範性は、暴力的ですらある。なぜならそれは、個人の状況や苦痛を切り捨て、「役割」を優先することを善とするからだ。
教育の現場に限らず、日本社会の組織はしばしば「空気」を通じて人を統制する。問題を言語化しないこと、波風を立てないこと、場の調和を乱さないことが評価される。ここで重要なのは、この圧力が外からの命令としてではなく、「配慮」や「常識」という形で内面化される点だ。誰かに強制されなくても、人は自分で自分を抑え込むようになる。
そして最もこの構造に絡め取られやすいのが、先述したように真面目な人間なのではないだろうか。
真面目さとは、規範を理解し、それに従おうとする態度だ。だが、その態度は同時に、自分の違和感を後回しにする癖を生む。
これは大したことではない、今は我慢すべきだ、自分が未熟なのだ。そうやって感情を処理し続けるうちに、何が苦しいのかさえ分からなくなっていく。
このとき起きているのは、反抗の欠如ではない。むしろ過剰な適応だ。空気を読み、役割を果たし、期待に応え続けた結果、内側で歪みが蓄積されていく。真面目さは、美徳であると同時に、こじれの温床にもなる。壊れたとき、人は「自分のせいだ」と考えがちだからだ。
『先生の白い嘘』が突きつけてくるのは、加害者である早藤の異常性だけではない。それだけなら、単に「ちょっとサイコな風間俊介」個人の物語で終わり、あの「イヤなやつっぷりは新境地だよね」で終わっていることだろう。
むしろ、美鈴や早藤個人のみに帰結すべき問題ではなく、このような人種が潜在的に社会には数多く潜んでいるのではないかという不安を鑑賞者に突きつけてくるところが、漠然としたもやもや感の理由なのだろう。
白い嘘は、社会から与えられた装置でありながら、いつのまにか個人の内側に組み込まれる。そして人は、その装置を守るために、自分の声を削っていく。
この映画が不快なのは、私たち自身が、同じ装置の内部にいることを、否応なく思い出させるからなのだ。
不快さが残す余白
先述した通り、この映画は、観ていて不快だ。
むしろ鑑賞後に、その不快感がじわじわと効いてくる。
だが、この不快さこそが、この作品の最大の誠実さだと思う。
説明しすぎない。
感情を言語化しすぎない。
観客に「正しい理解」を押し付けない。
代わりに、「あなたはどう感じたのか」という問いだけが残される。
冒頭の奈緒の、焦点の合いきらない視線。
それは、この物語に漂う白々しさ——感情が漂白された世界——を視覚的に示しているように見える。
ラストで世界が優しくなるわけでも、問題が解決するわけでもない。
ただ一つ変わるのは、彼女が自分の感覚をごまかさなくなること、2年後の美鈴は少しだけ前に一歩進み出た、新たな一歩をもしかしたら踏み出せる可能性、のようなものだけを提示して物語は膜を閉じる。
ここにも答えを与えず、曖昧なまま。
だからこそ、この作品は後を引く。
簡単に語って終われない、
様々な余韻を残したまま。
