展示されるナルシシズム
1980年代から2000年代にかけて、都市文化とナルシシズムは密接に結びついていたように感じる。
特にバブル少し前の時代から21世紀初頭にかけて。
かつての男性若者向け雑誌『POPEYE』や『Hot-Dog PRESS』の特集を紐解けばわかる通り、「モテる」「センスがいい」「教養がある」といった文化資本の記号群が、男の承認欲求を満たすための評価軸として、情報として消費されてい。
ワインの銘柄やフレンチの店名、哲学の固有名詞、航空会社やホテルの名前といった“展示可能な記号”を通じて表現された。田中康夫の『なんとなくクリスタル』や『東京ペログリ日記』など。文学作品ではないかもしれないが、菊地成孔の一連のエッセイは、この“展示の文化”の代表例である。
ここで表出されるナルシシズムは、すでに身体化されたものとして醸し出るものではなく、どちらかというと一生懸命努力して手に入れたものを誇らしげに展示するかのような「頑張り」が感じられる。そのため読者によっては、そこに背伸びと見栄とコンプレックスを感じ取り、ある種の「痛さ」を見出す。
その「痛さ」とは、劣等感の克服を図るプロセスが露出した時に生じるものだ。
文化社会学者ピエール・ブルデューの言う文化資本に従えば、展示は身体化に至らない文化資本の形態であり、時間の経過に対しては脆弱だ。
背伸びから血肉化へ
「展示されるナルシシズム」とは対照的に、村上龍の文学は文化資本を「血肉化」する。龍は経済や医学、戦争や性を取材し、調査し、体験し、再編集し、小説の燃料として転化する。
そこにモテの既得権やナルシシズムの既得権は存在しない。
彼にとって性は展示物ではなく身体の問題であり、承認や階層移動、欲望の回路に組み込まれる。
田中や菊地のテキストに見られる「展示」は軽く映るが、「血肉化」は重い。体温と匂いが醸し出る。
展示は即時的だが、血肉化には労力とそれに伴うエネルギーが要る。
展示はナルシシズムの免責装置だが、血肉化は主体の提示、つまり「存り方」が出てしまう生々しさが宿る。
村上龍の筆圧は、その暴露を正面から描くことで生まれる。
一方で田中や菊地の筆圧は軽く、彼らの作品は固有名詞に付随した階層性の香りに依存する。この差は、作品の寿命に直結する。
村上春樹と無意識の翻訳
ところで村上春樹。
彼はナルシシズムの展示とも血肉化とも異なる第三の領域に立っている。
中期以降の春樹は「夢読みの活字職人」とでもいうべきか、意識の深層に沈んだ無意識の材料を抽出し、「大人向の童話」として物語を編む。
『職業としての小説家』で、彼自身が述べるように、意識の奥底へ沈潜してゆき、そこから何かを取り出してくることで作品は生まれる。
明晰な論理ではなく、夢の構造に近い接続が行われるため、あらすじだけを要約すると、一体何の話なのか焦点が定まらず、破綻しているようにさえ感じる。
しかし実際に読み進めれば、すぐに作品の中の世界に引き込まれ、不条理や残酷さや異界性にいつの間にか納得してしまっている。
これはユングの言う集合的無意識の領域に触れているからなのかもしれない。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や、そのリニューアル版ともいえる『街と、その不確かな壁』で“夢読み”という職業が登場したことは象徴的である。
春樹は夢の翻訳者であり、無意識の通訳者であるといえるだろう。
固有名詞は古びるが無意識は古びない
ここに文学の寿命をめぐる問題がある。
固有名詞は時代に縫い付けられると同時に、時代とともに腐敗する。
ワインの銘柄やブランドの名前、当時の女性像やモテの文法は、10年もすれば色褪せやすい。一方、無意識の構造は腐敗しにくい。昔話や神話、童話が時代を超えて読まれるのは、具体ではなく抽象を扱うからである。
春樹が国境を越えて読まれるのは言語の問題ではなく、無意識が普遍的だからである。逆に田中や菊地の作品は、90年代〜2000年代の東京文化の歴史資料として価値を持つ可能性がある。100年後、それらは“俗物背伸び男の時代記録”として人類学的に参照されるだろう。
しかし文学的強度は、展示から固有名詞を剥ぎ取った後に残る骨格の強さで決まる。
普遍と時代の交差点
令和に至り、田中康夫や菊地成孔の作品は、すでに褪色の兆しを見せている。
この褪色とは文学的死ではなく、そこに縫い付けられていた固有名詞で支えられた虚勢が、時代の退潮と共に剥離してしまう現象である。
その結果、作品から残るのはブランド名と地名と食べ物と女の属性──つまり俗物背伸び男の欲望記録である。
しかし逆説的に言えば、その俗物性こそが歴史資料としての強度を持つ可能性がある。二百年後、三百年後、研究者はその作品を“平成東京の欲望の民俗誌”として引用するかもしれない。
彼らの作品は“昭和〜平成における欲望と背伸びの文化誌”として再発見される可能性がある。つまり作品としてではなく、当時の都市文化の“記号辞典”として引用される未来である。その時、作品からは物語の核が剥ぎ取られ、ワインやCAやモテの文法といった消費の言語が標本として残るだろう。
そこには文学的価値ではなく、都市における階層移動の儀式、文化資本の誇示、ナルシシズムの消費回路といった社会的記号が残る。作品はもはや読む対象ではなく、参照される対象となる。つまり、文学ではなく文化考古学の対象に変質するということだ。
作品は残る、だろう。
しかし残り方には階層がある。無意識は時間を跨ぎ、ナルシシズムは時間に縛られる。それが文学の分岐点である。褪色は必ずしも敗北ではないが、褪色に耐えうる核を持たぬ作品は、文学ではなく文化資料へと転化する。
結局のところ文学の寿命は、作品が“読まれるために残る”のか、“参照されるために残る”のかで決まる。物語は時代とともに消えるが、無意識は時代を跨ぐ。文学はその分岐点に立っている。