正義はなぜ人を遠ざけるのか

正義が前面に出たとき

ある大学受験予備校代表のSNS投稿を眺めていて、不思議な感覚を覚えた。

発信内容そのものは、決して間違ったことではない。

教育業界における不正や不透明な慣行を批判し、公平な受験制度を守るべきだと訴えている。

もし主張が事実であるなら、その問題提起には公益性もあるだろう。

しかし、その発信は一度や二度では終わらない。数年前の出来事を何度も掘り返し、同じスクリーンショットを繰り返し掲載し、相手の反応を促すような投稿を重ねていく。
やがてタイムラインは教育論よりも告発で埋まり、「この人は教育者なのか、それとも告発活動家なのか」という印象さえ抱くようになった。

もちろん、悪事を見逃せという話ではない。
問題を告発する人がいなければ、業界の自浄作用も働かないだろう。

ただ、正しさと発信の仕方は別問題である。
内容が正しくても、表現方法や行動様式によって受け手の印象は大きく変わる。

その違和感の正体を考えてみた。

正義の暴力はどこから生まれる

まず正直、嫌悪感を覚えた。

嫌悪感の質は、今年3月に起きた辺野古沖転覆事故(事件)後に見せた、活動家たちに態度に感じた嫌悪感と同質のものだと感じた。

もちろん、その予備校代表は「反基地活動家」でもなければ、先日警察庁も認めた米軍基地反対抗議活動の中に参加している「極左暴力集団」でもない。

もちろん、主張内容は「不正入試への糾弾」であって、「米軍基地反対」でもない。

だから、最初は、その嫌悪感の理由が分からなかった。

なぜ「正しい(かもしれない)こと」を言っている人物に、そこまでの嫌悪感を覚えたのか。

考え続けて辿り着いたのは、「正義そのもの」ではなく、「正義を前面に出し続ける姿勢」にあった。

人は強い信念を持つと、自分の正しさを社会へ示そうとする。
その姿勢自体は悪くない。

しかし、それが長期間続き、発信が相手個人への糾弾や揶揄、繰り返しのスクリーンショット公開へと傾いていくと、見ている側は次第に「もう十分ではないか」と感じ始める。

正義は本来、社会をより良くするための手段である。

しかし、正義を「掲げ続けること自体」が目的になった瞬間、その姿は変わる。
「私は正しい」から「私は裁く資格がある」へと。
そして時に、「裁き続ける私」を演じてしまう危うさも生まれる。
ナルシスティックに「戦い続ける自分」に酔ってしまうかもしれない。

受け手が感じる違和感は、主張ではなく態度に向けられているのではないか。そんな気がしてならない。

品位は発信の説得力になる

興味深かったのは、批判されている側の対応である。

SNS上で感情的に応酬するのではなく、「必要に応じて適切な手段で対応する」「正式な窓口を通してほしい」とだけ述べ、自らの通常業務や情報発信へ話題を戻していた。

外野がなんだか騒いでいるようだけど相手にはしませんよ。
SNSの土俵にはあがりませんよ。
外野で勝手に一人で騒いでいてください。

書かれてはいないが、行間からはこのようなスタンスが読み取れる。

もちろん、それだけでどちらが正しいとは言えない。
事実関係は第三者には判断不可能であることは言うまでもない。

ただ、「SNSの土俵にはあがりませんよ」というスタンスは、賢い戦術だと思える。

SNSの議論には終わりがない。
反論すれば再反論され、その応酬を面白がるのはギャラリーだけである。
企業ブランドにとって得るものは少なく、失うものの方が大きい。

糾弾されている予備校からの

一方、連日のリポストや過去投稿の再掲、相手への挑発的な言葉は、支持者を増やすよりも、「執着している人」「粘着人間」という印象を与えやすい。

説得力は、論理だけでは生まれない。
品位や余裕、終わらせ方まで含めて、人は発信者を評価している。

教育者と活動家の境界線

その指導者の経歴を見る限り、教育者としては長年実績を積み重ねてきた人物とお見受けする。

指導者として、多くの受験生を難関大学へ送り出してきた経験は簡単に否定できるものではない。
実際、卒業生から慕われている様子もSNSの「卒業生が訪ねてきました」画像からも伝わってくる。

だからこそ、なおさら惜しいと感じる。

教育者の本業は、受験生の未来を伸ばすことだ。

もちろん社会問題への提言も重要だが、外部からSNSだけを見る人には、「教育」よりも「告発」に多くの時間と情熱を注いでいるように映ってしまう。

実際にはそうではないのかもしれない。しかし、人は現実だけでなく「どう見えるか」で判断する。

キャラクター性の強い校長に魅力を感じる受験生もいるだろう。
一方で保護者は、別の視点で見る。

「この予備校経営者は、今どこに一番エネルギーを使っているのだろう」と。

親は何を見て予備校を選ぶのか

受験生は個性的な先生を面白いと思うかもしれない。

熱量のある授業や独特のキャラクター。
確かに魅力的だろう。
本当に授業が面白ければ。

しかし親の立場になると、見える景色は少し変わる。

特に医学部受験では、保護者が医療関係者である家庭も少なくない。
彼らは理念だけでなく、組織としての安定感や信頼性、冷静な判断力も重視する傾向がある。

そうした人たちの目に、フォロワー数が1000人にも満たないSNSで毎日のように一つのテーマを繰り返し繰り返し執拗に発信し続ける塾長は、どのように映るのだろうか。

正義感あふれる教育者なのか。それとも、自らの正しさを証明し続けたい人なのか。

見え方は人それぞれだろう。

ただ一つ言えるのは、人は正しさだけでは人を信頼しないということだ。

発信の品位。
いつ終わらせるのか。

そして、教育に注ぐエネルギーの向け先。

そのすべてが積み重なって、「この人に子どもを任せたいか」という最後の判断につながるのである。

正しいこと「だけ」なら幼稚園児にでも言える。