塾を渡り歩いた男の一言
塾や予備校の教員を転々としている知り合いがいる。彼は大手予備校から町の小さな塾、高額な医学部専門予備校などタイプの異なる塾や予備校をいくつも講師として巡り歩き、三十年以上そのような生活を続けている。
ある日、彼がぽつりと言った。
「なんかさ、月謝が高額のところの方が親は上品なんだよなぁ。それに比べて安いところっていうのは、こんなこと言いたくないんだけど、下品な親が多い気がする」。
耳に残る言葉だった。教育サービスを提供する側にとって、顧客の“民度”がどれほど現場に影響を与えるかを、彼は体感しているのだろう。
安かろう悪かろうの裏側
「安かろう悪かろう」とは、普通は商品の品質を指す言葉だ。しかし、教育という非物質的なサービスでは、これは顧客の行動様式にも当てはまる。
安い予備校や塾ほど、保護者からのクレームが多い。内容は授業内容への不満、講師への言葉遣い、成績の伸びの遅さなど、細かいものまで多岐にわたる。しかも、語調が荒く、時に理不尽だ。
一方で、医学部専門予備校に年間学費が一千万円を超えるようなところでは、同じような不満が湧出したとしても、伝え方は穏やかである。要求は具体的で、感情的な高ぶりがない。
この差は単なる「所得差」ではない。
教育に対する向き合い方、そして社会経験に基づく合理性の差なのだろう。
「コスト」か「投資」かの違い
学費が安い予備校に通わせる親の多くは、教育費を“コスト”として捉えている。
「払った以上のリターンを求める」意識が強く、結果が出ないと不満をぶつける。
「こちとら客なんだぞ」という意識が強いのかもしれない。
一方で高額な予備校に通わせる親は、「投資」として捉える。投資にはリスクと時間が伴うことを理解しているから、短期的な成果よりもプロセスを見守る姿勢がある。
これは金融の考え方にも似ている。
安価な投資信託に過剰な期待を寄せ、値動きが悪いとすぐ売却する人がいる一方で、資産家は数年単位で静かに待つ。予備校でも同じ構図が見られる。
クレームの質が語る“教養”
高額な予備校の保護者は、クレームを「要求」ではなく「提案」として出す。
「この時期にこの教材を増やすと、本人の負担が大きいのではないか」
「面談をもう少し頻度高くできないか」などの要望が多いのだという。
いずれも、子どもの学習効果を第一に考えた発言である。
一方で、低価格帯の塾では「金を払ってるんだから成績を上げろ」というような感情的な表現が目立つ。教育サービスを“購入した商品”のように扱う姿勢が、クレームの荒っぽさに現れる。
結局、経済的な余裕がある層ほど、社会経験に裏打ちされた“言葉の使い方”を心得ているのだ。
経済的成功者の合理性
年間一千万円、二千万円の学費を支払う保護者の多くは、開業医や経営者、投資家、不動産業など、高収入を得ている人々である。彼らは実社会で「怒鳴っても得はしない」ことを学んでいる。
彼らにとって、無駄な衝突は時間の浪費であり、子どもの合格という目的から遠ざかる行為だ。だからこそ、感情的ではなく、建設的なコミュニケーションを取る。
さらに、社会的地位を保つための“体裁”というブレーキも働く。公共の場で声を荒げることは、信用を落とす行為であるとわかっているからだ。
こうした「合理性」と「プライドの統制力」は、成功者の共通点でもある。
奪い合う構造の外にいる人々
スーパーの値引きシールを巡って争う人々と、高額予備校に通わせる親の間には、単なる所得差以上の構造的な違いがある。
安い商品やサービスの世界は、「限られた安さ」を奪い合うゼロサム構造になりやすい。だからこそ、顧客同士の緊張が高く、店員への要求も過剰になってしまいがちだ。
一方で、高額サービスの世界には精神的な余裕がある。奪い合う必要がない。そしてサービス提供者をパートナーとして扱う。そこに生まれるのは、穏やかな関係性であり、結果を共有するチーム意識である。
経済力が映す民度
もちろん、金持ちがすべて上品で、貧しい人がすべて下品だという単純な話ではない。だが、経済力と民度の間に一定の相関があることは否定できない。
経済的に余裕のある人は、他者との関係においても「長期的な利益」を見据えて行動する。安定した生活基盤が、他者への寛容さや冷静さを生み出す。
逆に、常に限られたリソースを奪い合う環境にいる人は、短期的な損得勘定に敏感になり、苛立ちや攻撃性を抱えやすい。スーパーやコンビニでのカスハラはともかく、教育サービスにまで、それらと同等の消費者意識で挑まれると、塾や予備校のスタッフはたまったものではないだろうと思ったが、そのようなことは日常茶飯事なので、むしろそのようなタイプの親の扱いには慣れているようだ。
「クレーマー親」への対応のマニュアルも用意されているところもあると聞いた。
塾、予備校という小さな社会の中にも、大人社会の縮図は確かに存在している。
教育の現場は、家庭の経済力のみならず、その背景にある文化的な成熟度までも映し出す鏡なのだ。