「対馬の海に沈む」が映す、承認欲求社会の病理

ノンフィクション『対馬の海に沈む』(窪田新之助著)は、JA対馬の元職員・西山義治が起こした22億円超の横領事件を描いた作品だ。

物語は、島の人々が目撃した車の転落事故から始まる。

2019年2月、西山は自ら運転する車ごと海に沈み、命を落とした。職場で不正の追及を受けるはずだったその日、遺書も残さずに。事故は自殺とみられ、島中に衝撃が走った。

著者・窪田氏は、事件を単なる「職員の横領」として終わらせず、島という閉ざされた空間で、組織・地域・顧客を巻き込んだ“構造的な共犯関係”を浮かび上がらせようとする。

JA対馬で長年「神様」「日本一の営業マン」と称されていた西山には、驚くほどの営業ノルマ実績と強い影響力があった。

本書では、架空契約や共済金の横流しといった不正手法に加え、彼が形成した「軍団」と呼ばれる内側の結束──アメとムチで周囲を統制した構造──が、どのように長期間黙認され得たのかを丹念に解きほぐす。

つまり、22億円の不正は「個人の悪意」のみでは成立せず、組織風土・ムラ社会・黙認体制といった複層的な「闇のネットワーク」の中で、むしろ必然的に孕まれていた──という視点が、窪田氏の調査の核心である。

著者・窪田氏が追うのは、「なぜ一人の職員が、人口3万人の離島で、22億円もの巨額を動かせたのか」という疑問だ。

事件は西山個人の犯罪として片づけられたが、背後にはJAグループのノルマ主義、組織の沈黙、そして“成果さえ出せば正義”という空気が見え隠れする。西山は「日本一の営業マン」「神様」と呼ばれ、周囲の信頼を得るために細部にまで執念を燃やした。書類を偽造するために筆跡の練習までしていたという。

この異常なまでの几帳面さと執着は、単なる金銭欲では説明できない。
むしろ「認められたい」「頼られたい」という強烈な承認欲求と、劣等感の裏返しだったのではないか。
“ヒーロー”であり続けるために、彼は完璧な虚構を作り上げ、それを維持するために努力を惜しまなかった。
人を支配し、組織を動かすスリルや全能感が、彼の自己を蝕んでいったのだろう。

とはいえ、彼をそうさせてしまったのは、彼個人の問題だけではない。
JAという組織やノルマ制度自体に直接の非があるわけではなく、もっと根の深い「構造的な問題」が存在する。
それは、歪んだ形でしか自己実現できない社会の仕組みだ。
どんな会社にも、どんな社会にも「競争」はある。競争は人を鍛え、成長させる。

どんな会社にも、どんな社会にも「競争」はある。競争は人を鍛え、成長させる。

たとえば、受験にしてもそうだ。
もちろん、入りたい大学で学びたいことがあり、その目標に向かって努力する受験生も多いだろう。

けれども、現実には「偏差値の高い大学に入ればカッコいい」という思いや、「あの子よりも上の大学に受かって見返したい」、「あのブランドの学生になれたらモテる」──そんな気持ちを、心のどこかに抱いて歯を食いしばって勉強する高校生や浪人生もいるはずだ。

動機としては不純かもしれないが、こうした「欲望エネルギー」が驚くほどの推進力になることもある。

人間の感情とは本来、きれいごとだけで説明できないものだ。嫉妬も劣等感も、ときに強烈な燃料になる。問題は、そのエネルギーをどこまで自覚し、どう制御できるかだ。

競争は、人を磨く試練にもなれば、人を壊す毒にもなる。

大学受験を例にすれば、合格をゴールにしているうちは健全だが、「勝つこと」そのものが目的化しはじめると危うい。

模試の偏差値やSNS上の合格報告など、数値や他人との比較ばかりに意識が向き、自分の中にある“なぜ”が消えていく。

そうなると、たとえ第一志望に受かっても、心の中に空洞が残る。努力して勝ち取ったはずなのに、満たされない。

その空白を埋めようと、人はまた別の競争を探してしまう。ブランド就職、出世、収入、フォロワー数──社会のどこに行っても「次のレース」が待っている。
そしていつの間にか、「誰かに勝つために生きている」状態に慣れてしまうのだ。

この構造こそが、現代社会の危うさだと思う。

JA対馬の事件も、スケールこそ違えど、根底には同じ構造がある。
“勝ち続ける人”でありたい、“すごい人”と思われたい、その承認欲求が暴走すると、人はルールをねじ曲げてでも成果を維持しようとする。

それは必ずしも悪意からではなく、「期待を裏切りたくない」「もう後戻りできない」という心理から生まれることも多い。

そして、その過程で、何千人、何万人に一人の割合で“エラー”が生じる。
過剰な承認欲求が暴走し、倫理のラインを越えてしまう人が稀に出てしまうのは、ある意味でシステムの副作用でもある。

だからこそ、競争そのものを否定するのではなく、競争が生み出す歪みを早く察知する感性が、組織にも社会にも求められているのだ。

努力が報われる社会を目指すなら、「勝つ」ことよりも「どう勝つか」、「勝ったあとに何を大切にするか」を問う視点を、私たちは忘れてはならない。

だからこそ本当に大切なのは、不祥事をゼロにすることではなく、エラーが起きたときにいかに早く気づき、対処できるかという仕組みづくりだ。

成果主義や競争原理の中に潜むリスクを前提として、「早期発見と修復」の回路を組織の中に持つこと。

それが、同じ悲劇を繰り返さないために、私たちが学ぶべき教訓ではないだろうか。

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