正しい中毒の人たち

正しさという麻薬

「頭の良さ」と「頭の使い方」は違う。

これは単純な言い回しのように見えて、実際は人生の成否を大きく左右する境界線である。

学歴やIQの高さを誇る人ほど、この違いを見誤り、「正しさ」という名の麻薬に依存してしまいがちである。そして困ったことに、この麻薬は静かで、上品で、そして依存していることに本人は気付いていないのだ。

いわば「正しい中毒」と呼んでも良いだろう。

正しさが孤立を生む構造

たとえばだが、特に、東大卒の人にこのような傾向があるように感じる。
もちろん、東大卒の人全てには当てはま流わけではないことを急いで付け加えさせていただく。

そして、もちろん東大卒に限ったことではないが、いわば高学歴で世間的にはいわゆるエリートとされている人にみられる一般的傾向としては、議論で正解、あるいは最適解を見つけた瞬間、説明する努力を放棄する。

正しい。
以上!

正しい。
終了。

という感じで。

実は、この正解や「正しい」を見つけたことがスタート地点なのだということがわからないようなのだ。

大切なのは、この「正しい」をどう周囲に説明するのか、わかりやすく落とし込むのかという労力の方だ。
時に、正解を見つけることに費やす以上のエネルギーを費やすことだってある。

しかし、世にいう「頭のいい人」たちは、この「正しいの後」の作業を軽視しがちだ。

正しいのは自分なのだから、周囲が理解できないのは周囲の問題だと考えてしまう。

結果、理解されないままいつしか孤立し、孤立を「周りが愚かだから」とみなして心の中の落とし所を作る。

この自家中毒的なスパイラルは、知識偏重社会が生んだわかりにくい病理と言えるかもしれない。

ラスコーリニコフの誤算

この「正しい中毒」の構造は、文学にもはっきり描かれている。

ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、知性に恵まれながらその頭の使い方を完全に誤った青年だ。

「優れた人間は道徳を超えられる」と信じ、高利貸しの老女を殺害する。

理論は精緻、論理は明晰。しかし現実の感情・倫理・人間関係を軽視したため、彼の知性は彼自身を孤独と破滅へ導いた。

頭が良いことが、必ずしも人生を良くするとは限らない。

夜神月が示す変質の罠

この構図は『デス・ノート』の夜神月(やがみ・らいと)にも重なる。

彼は優秀で、合理的で、計算能力も高い。

しかし、自らの正義を独占し始めた瞬間、頭の良さは暴走し支配欲へと転換してゆく。

最初は「世界を良くする」が目的だったはずが、途中から「自分の優位性を守るための正義」に姿を変えていく。

正しいという感覚は強烈で甘美だ。だがその快感に溺れると、人は必ず孤立する。月は最後まで悔悟できず、自らの「正しさ」の奴隷のまま滅びた。

正義が暴走する

さらに、この「正しい中毒」は文学やフィクションの中だけでなく、現実の社会運動やイデオロギーにも色濃く現れる。

とりわけ活動家、とくに左翼系の運動に関わる人々の一部には、夜神月と同じ構造が見え隠れすることがある。

彼らの掲げるスローガンは、たしかに理念として美しく、理想としては正しい。人権、平等、平和──どれも反論の余地がない。

しかし、問題はその「正しさ」と現実との折り合いをつける能力が極端に乏しい点にある。理想が崇高であればあるほど、それを掲げる自分たちこそ絶対正義だと錯覚してしまうのだ。

その結果、「自分たちに反対する者=悪」という構図が成立する。悪に対しては容赦はいらない。破壊してもいい、黙らせてもいい、排除してもいい──そうした極端な発想が、ごく自然に湧き上がってしまう。実際に、一部の過激なデモや街頭活動、いわゆる“しばき隊”のような妨害行動には、この心理構造が透けて見える。

自分たちは正しいのだから、相手にどんな仕打ちをしても罪悪感は芽生えない。むしろ「悪を懲らしめた」と正義感に酔ってしまう。

ここまでくると、それはもはや政治ではなく宗教の領域だ。

歴史を振り返れば、「神の名のもとに」行われてきた破壊や殺戮がいかに多かったかは語るまでもない。

絶対正義を掲げた瞬間、人は簡単に残酷になれる。だからこそ、正しい中毒がさらに進行すると「正しい教」とでも呼ぶべき教義を抱え込み、その信者として生きてしまうのだろう。

そこでは議論も妥協も存在しない。ただ正義と悪という幼児的な二項対立だけが支配し、世界は途端に単純化される。だがその単純さこそが、もっとも危険なのだ。

なぜ正しい人ほど破滅するか

現実にも「夜神月型」は多い。
知識に優れ、論理が強い人ほど、自分の正しさに酔い、他者の感情や視点を読む力に欠ける。

説明するためのコミュニケーション技術を鍛えてこなかったため、理解されないと「周囲が低レベル」と解釈してしまう。

学歴社会はこの傾向を加速させる。
いや、学歴社会がそのようなタイプの人間を生み出しているのかもしれない。

だから、勲章を得た人は、その勲章に縛られる。

ラスコーリニコフの理論も、夜神月の正義も、東大卒のプライドも、突き詰めれば同じ構造だといえる。

「私は正しい」という快感を失うのが怖くて、手放せないのだ。

正しさを捨てる勇気について

では、この中毒から抜け出すにはどうすればよいのか。
答えは単純で難しいが、他者と向き合うことだ。

ラスコーリニコフを救ったのはソーニャという他者であり、夜神月に欠けていたのもその存在だった。

正しさは一人で持てるが、知恵は他者との関係の中でしか育たない。

頭が良い人に本当に必要なのは、正しさを証明する力ではなく、正しさを手放す柔軟さだ。

正しいことに中毒し、他者を理解できなくなった瞬間、人はどれほど知能や学歴が高くても、ただの愚か者になる。

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